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  • 鮭の町で創業二百年 越後村上うおや会社概要


    越後村上うおや初代助五郎と村上の鮭

    越後村上うおやは寛政年間、初代上村助五郎が鮭の元売業を起こし、以来さかなと共に200年余、現在の店主で九代目を数えます。古い文献には文政元年(1818)九月十九日肴町助五郎(上村氏四十六歳)が鮭川入札でその年の鮭の漁業権を金1317両で落札。翌20日には網子7,8人と羽黒神社に参詣し祈願したと記述があります。 

    越後村上うおやは200年前から「塩引き鮭」を作り続けてきました


    塩引き鮭を作る「鮭こうば」

    200年前から「鮭商品」を作り続けてきた老舗「越後村上うおや」では程よい脂ののった形の良い秋鮭を選んで、美味しい塩引き鮭を作っています。 越後村上うおやは、創業200年の老舗。日本海の旬の鮮魚とその素材を生かした、うおやならではの手作り製品を取り揃えています。日本海の荒海でもまれた魚介類は身が締まり、鮮度も抜群。うおやでは、10月下旬から11月に日本海沖でとれる最高の雄鮭にこだわり、さらに吟味を重ね選び抜いた鮭を販売しています。また、その旬の鮭を素材にして塩引鮭他、うおや特製の鮭製品を作り出荷しています。

    海鮮一鰭

    越後村上うおや直営の食事処 海鮮一鰭

    2013年9月オープン店名の由来は、同市の名産である塩引き鮭の部位の名前から付けられました。鮭の「一鰭(いちびれ)」は胸びれについているカマの部分。一尾から左右二つしか取れない貴重な部位で、同市では新年を迎える際に神様に謙譲する慣わしがある。 一鰭は、鮭の一生で休むことなく動く元気のシンボル。地域の魅力を絶え間なく伝えていきたい思いで命名されました。

    越後村上うおやのお取り扱い商品


    越後村上うおやの取扱い商品はサクラマス、天然真鯛、柳鰈、天然岩牡蠣、甘海老、岩もずくなど日本海の新鮮魚介類と、旬を素材とした各種味噌漬、醤油漬、かほり漬、西京漬、干物、惣菜など数多くの独自加工品です。特に村上は平安の昔から鮭と鮭加工品が特産として全国に知られ、塩引鮭、醤油はらこ、鮭の酒びたし、飯寿司など高くご賞味いただいております。

  • 会社沿革



    2019年12月
    テレビ東京 昼めし旅で塩引き鮭が紹介NEW
    2019年11月
    日テレ行列のできる法律相談所に女将がスタジオ出演
    2018年 4月
    「日本ギフト大賞2017」の新潟賞に弊店の塩引鮭が受賞!
    2017年12月
    テレビ東京ニッポン行きたい人応援団で塩引鮭作り紹介
    2016年11月
    テレビ朝 羽鳥慎一モーニングショ- 宇賀なつみアナの継ぐ女神に弊店女将が紹介
    2014年 2月
    BRUTUSお取り寄せグランプリで「鮭の飯寿司」が鮭加工品部門でグランプリに!
    2013年11月
    食の絆サミット2013「サケ×アテグランプリ」で新潟大学のサークル「雪見酒」さんグランプリ受賞!アテは越後村上うおや「鮭の酒びたし」
    2013年 9月
    食事処 海鮮一鰭 開店
    2009年10月
    越後村上うおや「鮭こうば」完成
    2007年10月
    日本醤油協会 醤油 名匠顕彰委員会より 「醤油名匠」を受賞
    2001年12月
    にいがたデジコングランプリの企業・団体部門でホームページ賞・新潟県知事賞を受賞
    1997年 7月
    越後村上うおやホームページ開設
    1818年 9月
    上村助五郎(四十六歳)が鮭川入札でその年の鮭の漁業権を金1317両で落札し、その年の大納屋に
    1800年頃
    越後村上うおやは寛政年間、初代上村助五郎が鮭の元売業を起業

    » 過去ログ

  • 福邦メクラブFUKUHO 100年続く「老舗」に学べ お客目線の存続を目指

    海は荒海と塩引鮭

    中山晋平の「海は荒海、向こうは佐渡よ~」誰でも一度は歌ったことかあるのではないだろうか。この荒海が新潟県村上の塩引鮭を創ってきた。新潟の雪は、べとつくと言われるが、冬日本海を渡ってきた湿気を含んだ空気が三面川を逆上り、更に湿気を増して村上に入ってくる。
    この村上で200年に渡り、昔ながらの製法を変えず、塩引鮭、加工品を作ってきたのが、「越後村ようおや」(代表上村隆史9代目)である。「うおや」は、よくある漁師の頭としてのルーツがあるわけではない。その「うおや」が、200年に渡り、鮭に関する商いをしてきた背景には、古くから続いてきた租税制度がある。一般的に、租税というと、米が代表的なものであると思われているが、その他の物納も古くから行われていた。鮭の物納は、都に近い地域は生の鮭、村上のように遠いところは加工した鮭を送っていた 。
    鮭を租税の変わりにこのことは、江戸時代に入っても変わらず、村上藩のように、これといった産物がない。ところは鮭を納税することが引き続き行われた。村上藩では入札制度を導入し、鮭の取引に間することを民間に委託(今日で言うところのアウトソーシング)したのである。 この制度により、毎年入札が行われ、今日の金額に換算すると、1億~2億円程度の資金が動いたようであり金融制度の発達していなかった江戸時代はそれなりの人物が代表となっていた。その中の一人が、うおやの初代上村助五郎であった。上村肋五郎が村上の歴史に登場するのは、1818年に約1400両(今日に換算すると約2億円)、落札したという古文書からである。

    お国は越後

    8代目夫人(上村八恵子)によると、江戸時代からの藩との関わりは長く、戦後も旧藩主のところへ鮭を送ったことがあるということだ。江戸から明治に変わると、廃藩置県が行われ、県が中心となってきたことは確かである。しかし、今日においても藩については根強い意識が私達の心の中にある。読者の皆さんも出身地を聞く特は、「お国はどちらですか」と聞くのもその名残である。特に、新潟県地方の出身者は越後という言葉を使うことが多い。この郷土意識が「うおや」の業績を仲ばすこととなる。新潟村上地方の人は、戦前から戦後にかけて関東地方に就職する人が多かった。 そして、この人達が自分達が育ってきた郷土を犬切にする傾向かあり、特に村上地方出身者は、幼いころに食べた村上の塩引鮭の味を懐かしく思い出すのである。その影響があり、関東圈への出荷が「うおや」の主力ビジネスとなっている。

  • 日本商工会議所 ビジネス情報誌 月刊石垣

    暖簾を受け継ぐ 郷土に伝わる鮭加工品をつくり続ける

    独自の製法にとことんこだわる新潟県村上市は〃鮭のまち〃といわれ、毎年11月になると、至る所で軒下に鮭を干す光景を目にすることができる。 その調理法も多岐にわたり、昔からこの地に伝わるものだけで100種類を超える。 中でも、特に有名なのが「塩引鮭」だ。それを200年以上にわたってつくり続けてきたのが、越後村上うおや。同地には鮭の加工業者が16社あるが、同社がその歴史において一番の老舗だという。 「村上は塩引鮭を製造するのに最適な土地なんです。湿度が高く、気温が低いので、おいしいものができます。 ほかの地域だと鮭が乾燥し過ぎて、カチカチになってしまうんですよ」と9代目の上村隆史さんは言う。気温10度以下、湿度70%程度が最高の条件で、それに合わせて例年10月に仕込みが始まる。 まず、鮭の腹を裂いて内臓を取り除き、よく洗い塩漬けにする。これを1週間寝かせた後、水洗いして塩抜きを行い、条件が整った11月から干し始めるのだ。 干す期間は1週間で、おいしくつくるには干し方が重要だという。 うちでは干す場所を何度か変えています。最初に屋外で陰干しして、その後、室内に干します。室内の北側に干すときは、できるだけ冷たい風を当てるために朝4~6時の間に行うようにしています。そうやって、寒暖の差がある風にさらすことで、鮭のうま昧を引き出すわけです。 この干し方は代々受け継がれてきたものなんですよ」と説明してくれたのは、母親のハ恵子さん。彼女は60年近くも塩引鮭をつくり続けており、まさにうおやの昧を決めている人物なのだ。

    真摯な姿勢でお客と向き合う

    一時は、あまりに手間や時間がかかるため、乾燥機を使って手早く仕上げることも考えたそうだ。しかし、それでは代々守ってきた味は出せないと、あくまでも昔ながらの自然乾燥にこだわっている。 こうした真摯な姿勢は、原料選びにも見ることができる。 同社は、「おいしいものはよい原料からしかできない」との考えの下、日本海で獲れた脂が乗った鮭しか使わない。 「現在まで続けてくることができたのは、代々の当主が品質にこだわりながら、 さらにお客さまの要求に丁寧に応えてきたからだと思います。 辛口が好きな人もいれば、そうでない人もいます。 切り方も、輪切りがいい人もいれば、薄い切り身を好む人もいます。 うちではそうしたお客さまの要求に合わせて、塩の量を調節したり、切り方を変えたりして販売してきたのです」とハ恵子さんは話す。 お客から要求したものと違う‘と言われれば、丁重に謝り、すぐに新しい商品を送り届けた。そのような対応を続けてきたおかげで、何代にもわたって付き合いを続けてくれるお客が少なくないそうだ。しかも、そうした人々が日本全国にいるという。

    インターネットを活用し”うおや”の味を全国へ

    「長年の顧客だけでなく、最近はインターネットでたまたまうちを見つけて注文してくれたお客さまが、翌年も注文してくれるケースが非常に増えています」 こう話す隆史さんは、当初、後を継ぐ気は全くなかったそうだ。大学を卒業した後はSE(システム・エンジニア)として働き始め、コンピューターシステムの開発などに取り組む、忙しいながらも充実した毎日を送っていたという。 ところが、インターネットが普及していく中で「これを活用することで、うおやの商売をもっと面白く展開させることができるのではないか」という思いが頭から離れなくなる。 そこでまずは、会社勤めをする傍らで、うおやのホームページを作成することにした。すると、思惑は見事に大当たり。各地から、次々と注文が舞い込んできた。 この成功を受けて、2年後の平成13年、隆史さんは会社を辞めて実家に戻ることを決断した。これには八恵子さんもとても驚いたそうだ。というのも、そのころにはもう、息子が戻ってくるのをすっかり諦めていたからだ。「あまりにも想定外だったため、当時はどうしていいのか分からず、困ってしまったくらいです。でも、今は戻ってきてくれたことに本当に感謝しています」とハ恵子さんはうれしそうに話す。 その後の隆史さんは、郷土に伝わる料理を参考に、タラやマスの塩引をはじめ、地元で採れる魚介類を使った新商品を次々に開発。ハ恵子さんが長年の経験を生かしてそれを実際につくり上げるという絶妙な連携で、数々の商品化を実現した。その中でも特にマダラの鍋セットは好評で、この冬は飛ぶように売れたという。「以前は鮭のシーズン以外は比較的暇だったんですが、隆史が戻ってきたことで、季節に応じた商品をいろいろと出せるようになり、商売の幅がぐっと広がりました」 昨年には、隆史さんが同社の代表に就任。そして、「これからは会社の規模を拡大するよりも、商品の中身の充実を図り、村上の鮭加工品のおいしさを日本全国に伝えていきたい」と意気込みを見せる。彼は、同じ志を持つ仲間たちと協力しながら新たな動きもスタートさせている。 地元の有志とともに進めている、村上に伝わる100種類の鮭料理を再現する取り組みからは、きっと新たな名物となる商品も生まれてくるだろう。鮭のまち村上を、さらに活性化させるため、隆史さんの努力は続く。(文・山田清志)

  • メディアで紹介

    「越後村上うおや」は様々なメディアで取り上げられました

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