村上の鮭の歴史
鮭と村上の関わり 長い歴史の物語
村上の人たちは鮭をこよなく愛し、村上ならではの多彩な料理法で鮭を頭から尻尾まであますことなく味わい尽くします。その鮭料理の数は百を超え、鮭を愛する地元の人々の昔からの知恵と工夫が生きています。鮭の一人当たりの消費量では村上市は日本一を誇ります。
「鮭のまち」として知られる新潟県村上市。その調理法は100種類を超えるといわれ、身はもちろん頭や内蔵、中骨や皮に至るまで捨てることなく味わいつくします。村上の人々はなぜ、それほどまでに鮭を大切にするのでしょうか。
村上と鮭。その歴史は古く、平安時代には遠く京都の王侯貴族に三面(みおもて)川の鮭が献上されていたことが記録に残っています。江戸時代には村上藩の主要な財源となっていた鮭。
しかし江戸時代後期になると、だんだん不漁になっていきました。
そんなとき、藩の下級武士・青砥武平次(あおとぶへいじ)が世界ではじめて鮭の「回帰性」を発見します。回帰性、とは鮭が生まれた川に戻ってくること。その性質を生かし、三面川に産卵に適した分流「種川」を設け、鮭の産卵を助けることで鮭の回帰を促しました。(種川の制)いわば世界初の「自然ふ化増殖システム」ですね。
このことで三面川の鮭の漁獲高は飛躍的に増え、藩の財政も潤ったのです。これによって村上は「鮭のまち」として全国的に知られるようになりました。
明治1117年アメリカの孵化技術を取り入れた日本初の人工孵化に成功。減少していた鮭の遡上数も、明治17年に73万7千378尾を記録するまでに増えました。これは、単一河川では日本の最高記録になっています。
獲れた鮭から採卵をして、白子をかけ受精させ、育養所と県の孵化場で育てたり、県内の各孵化場に受精卵を送るなど、村上の三面川は文字通り県内の鮭の親川と言えます。鮭漁によって得た財源を旧士族達の子弟教育に使い、そのことから立身出世した人を「鮭の子」と呼ぶようになりました。
米が不作の年には鮭によって命を救われてきた村上の人々。一尾の鮭を大切に思い、活かしきろうとさまざまな料理法を開発しました。 塩引鮭、焼漬、酒びたし…そうした先人の知恵と工夫を受け継ぎ、【うおや】では伝統の手法でひとつひとつ丁寧に仕上げた鮭製品を作り続けています。
鮭の村上…小泉の庄
越後村上は平安の昔、小泉の庄と呼ばれ、中御門大納言家(藤原氏)の荘園であり、村上を流れる三面川の鮭も、この頃より都に献上されておりました。古代、越後からの税は「鮭」でした。
平安時代の中期法典「延喜式」(延長6年 927年成立)には越後国が納める物品が記されています。
主計式 上 越後国
調 自絹十疋 綿 布(麻布),鮭
庸 白木唐橿十合(衣類、調度品を入れる希) 自余輸狭布,鮭
中男作物 布 紙 漆 鮭内子并子 氷頭 背腸
内膳式 贅殿年料
越後国 楚割鮭八籠八十隻(尾) 鮭児 水頭 背腸各四麻笥 各一斗
越後からは、調・庸として鮭、中男作物として鮭内子并子・氷頚、背腸、年料貢進御贄として楚割鮭(すはやりざけ)、鮭児・水頭・背腸を、佐渡からは、中男作物として鰒、御贅として穉海藻(わかめ)を責進しておりました。
これによって、鮭が越後の代表的な産物であったことがわかります。
村上の三面川と鮭
朝日岳を流れの源とする村上の三面川の清流は、全長41キロ。越後平野をゆったりと流れ、ここ村上で日本海に注ぎます。村上の鮭を語るに越後村上の「三面川」(みおもてがわ)をさけては通れません。 三面川(瀬波河)の鮭のことが出てくる最も古い資料とされるのが次の資料です。
平安時代 永万元年(1165年)越後国司から出された「国宣」の起案文書の部分
「但於瀬波河者 有限国領也 就中漁鮭為重色済物 庄家不可成妨」
「但し瀬波河に於いては有限の国領なり。とりわけ鮭漁は重色の済物となす。庄家(庄園の役人)は妨げなるべからず。」「新潟県史 通史編1 原始古代 より
永万1年 1165 瀬波川(三面川)の鮭漁について院宣がでます。 その意とするところは、「瀬波川は国領であり、領される鮭は、国家への大切な貢納物である。城太郎資永(奥山庄・現中条周辺の人)が濫行しているようであるが、それを停止させよ。もし命令に従わなければ、罪科に処すべし」とのことでありました。
鮭は川にのぼって産卵し、孵化した稚魚は海に下って成長します。そして3・4年荒波にもまれ成魚となり、一万数千Kmもの長い旅をして秋、産卵のためにまたふる里の川に戻るという習性をもっています。川にはそれぞれ土地固有の有機物・無機物が溶け込んでおり、鮭は臭覚で自分の生まれた川を識別していると言われています。
さて、江戸時代に村上藩の主要な財源となっていた鮭は、江戸後期になると乱獲により徐々に不漁になっていきます。そんなとき、藩の下級武士・青砥武平次(1713-1788年)が世界ではじめて鮭の「回帰性」を発見します。青砥は鮭が遡上する三面川に鮭の産卵に適した分流「種川」を設け、蔦や柴で柵をつくり、ここで鮭に産卵させるシステムをつくり出しましたた。鮭はこれ以上遡上することがなくなり、三面川の鮭の漁獲高は飛躍的に増え、藩の財政も潤いました。つまり、青砥は自然ふ化増殖を世界で初めて成功させた人物。これにより、越後村上は「鮭の町」として全国に名をとどろかせるようになり、現在に至っています。
江戸時代にこのように積極的に、鮭の増殖に力を入れた川は、外にはありません。その後村上では、明治11年アメリカの孵化技術を取り入れた日本初の人工孵化に成功。減少していた鮭の遡上数も、明治17年に73万7千378尾を記録するまでに増えました。これは、単一河川では日本の最高記録になっています。
獲れた鮭から採卵をして、白子をかけ受精させ、育養所と県の孵化場で育てたり,県内の各孵化場に受精卵を送るなど、三面川は文字通り県内の鮭の親川と言えます。現在、鮭の遡上数は2万9千24尾で放流数800万尾ですので回帰率は0.2~0.3%となっています。
村上藩の財政を支えた鮭の運上金
「運上金」は、三面川の河口から酉輿屋から対岸の寺尾を結んだ村上藩簡の川を「運上川」とし、村上町大年寄の責仕でその年の鮭の漁業権を入札させ、最高額の入札者がその年の大納屋になって鮭漁を行い、落札した金額を納めさせる制度。
秋初めに大年寄より「鮭川内見」の案内が川方八町と瀬波町の年寄へ出されます。
(川方八町は村上の町でも三面川に近接した、肴町、塩町、小町、加賀町、庄内町、久保多町、下片町、上片町の八町をさします。)川絵図が作成され、漁場が決定されます。
鮭のその年の漁業権を入札にして落札した金額を藩に納めさせるシステムで、運上川の入札は、毎年秋の初めに村上町の大年寄りの責任で行われました。最高額の入札者が一人がその年の大納屋になって鮭漁を行い、落札額を運上金として村上藩に納入しました。
藩の役人たちが、鮭川御見分し、川方八町の年寄を通して入札が行われ、大年寄が開封、落札者が決まりました。漁期は十一月いっぱいで、納屋が網子を雇います。十一月廿日には運上金を上納します。
この制度により、藩の鮭の運上金は格段に増えました。
うおや初代上村助五郎と鮭
越後村上うおやは江戸時代の寛政年間、初代上村助五郎が鮭の元売業を起こし、以来さかなと共に200年、現在の店主で九代目を数えます。
古い文献には文政元年(1818)九月十九日肴町助五郎(上村氏四十六歳)が鮭川入札で鮭の漁業権を金1317両で落札。その年の大納屋となりました。
翌20日には網子7,8人と羽黒神社に参詣し祈願したと記述があります。(江見啓斎翁日誌)
(当時の1両は約13万円とのことですから、落札価格は1~2億円位の値段だったと思われます。)
以来200年。鮭を愛し、こだわり続けて、現在九代目。皆さまには長きに渡ってご愛顧いただき、中には親子二代で買いにこられる方も。本当にうれしい限りです。
これからも村上ならでは、【うおや】ならではの美味を 全国の皆さまにお届けしてまいります。
村上にお越しの際は、お気軽にお立ち寄りください!
鮭の母川回帰 三面川で生まれた鮭は,4年後産卵のために三面川に帰ってきます
冬季に日本の各河川の母川で生まれたした白鮭の稚魚は、しばらく母川河口流域でくらし、寒流が戻る初夏までにはオホーツク海へ回流して1年目はそこで過ごします。
2年目からベーリング海とアラスカ湾を回遊しながら肥育し、体が成熟する4年目に千島列島沿いに、日本海側の各河川へは宗谷海峡を南下し産卵のため生まれた川を目指して戻ってきます。鮭は、海洋で生活して川へ戻ったもののうち、平均的に90%以上が母川支流へ帰り、母川以外の川へ帰ったものも、その多くは母川の近くの川へ遡上するといわれています。
鮭はこの川固有のにおいを憶えて帰ってくることは、いろいろな実験でも裏付けられています。しかし、いつ覚えるのか、どのくらいの長さの時間で覚えるのかなどはまだ不明です。最近の研究では、川にはまわりの土壌や植物由来の複数のアミノ酸が含まれていて、 その中で季節・年変動しないアミノ酸の組成が識別に重要である可能性がいわれています。
三面川の鮭はダイレクトに川に戻るのではなく、一旦沖合いを通り過ぎてから、新潟沖,或いはその先で反転して、沿岸を北上し、主に川の匂いを探しながら三面川まで達しているとされています。
鮭の種類についての説明
日本の各河川の母川で繁殖した白鮭(シロザケ)の稚魚は、河口流域で暫らく生息した後。寒流が戻る初夏までにはオホーツク海で夏季を過ごし、2年目からベーリング海とアラスカ湾を回遊しながら肥育し、4年目に千島列島沿いに生まれた川に回帰します。鮭の種類についての説明はこちら
村上の鮭料理
村上では鮭は頭から尻尾まで余すところなく料理に使い、村上での鮭の調理法は100種類以上あると言われています。 鮭の身やハラコはもちろん、氷頭なます、背わたの塩辛、どんぴこ(心臓)の塩焼き、なわた(内臓)汁、皮のせんべい……などなど鮭のありがたみを実感します。
鮭商品のご案内
弊店の全ての鮭商品はすべて9~11月にかけてとれる最高級の国内産秋鮭、天然の白鮭を素材として作っております。
弊店では「白鮭」以外の鮭や養殖物は一切使用しておりません。
塩引き鮭の説明
【塩引き鮭】数ある村上の鮭料理の中でも、例年大人気を誇るこの塩引鮭こそは まさに「村上ならでは」の逸品です。 村上の正月の祝膳に欠かせないのが塩引き鮭です。年とり魚には塩引き鮭を用います。塩引き鮭の詳細はこちら
鮭(いお)の話 中村直人氏(寄稿)
鮭(いお)
サケマスのなかまは世界中にたくさん生息していますが、そのなかでも鮭中の鮭は6種類とされています。さらに1988年にはニジマスも仲間であることが判り7種類となりました。
このようにサケマスは分類が難しく、最近お馴染みのアトランティックサーモンはマスに分類されます。イワナ、シシャモ、アユ、ワカサギなどもこの仲間にはいりマス。
鮭川(村上三面川)のかおり
村上市の北部を流れる三面川は、東北南部のブナ原生林である朝日連峰の源流から海までの河川距離が41kmであり、流域にダム以外の障害物や水質汚染源もなく、さらに源流のみならず流域各地にもブナ林が点在しています。そしてブナ林の豊富な生成物が希釈されることなく、そのままそっくり海へと注いでいます。河川分類上は二級河川であり短距離なだけに深い大河とはならず、むしろこれが幸いとなる第一級の鮭川要因といえます。
実際10~5km未満の小川や澤が幾筋も存在しています。
さらに日本海側はしばしば山を降りたところがすぐに海である、と表現されるところが少なくありませんが、海寄りの山北さんぽく村沿岸に至っては川を形成する間もなくブナ林の源流が沁み水として、海へと注がれる地形環境が森林帯分布図からも読み取れるほどです。
こうした天賦の恵みが注がれた沿岸の代表的景勝地笹川流れに至っては海域一帯が鮭を呼び寄せている、といった表現も大袈裟とはいえないでしょう。鮭以外の貝や海草や魚類も豊富でかつ新鮮で滋味にあふれた状態で、周年にわたり生息してゆけるのは鮭川の最大の恩恵といえます。
鮭川の恵み
サケに選ばれた川
いくつかの鮭川条件を要約してみますと次のようになります。
・酸素を多く含んだ流れ、つまり湧水質の淡水清流源が必要
・清流に運ばれた養分がもたらす生態環境と、"匂い"が必要
・溯上に適した、"淵と樹陰"が必要
・産卵と孵化に適した、浅瀬で砂礫質の川床が必要
・生態環境を熟知し、採取・再生循環させる人々の知恵と努力
鮭/さけとしゃけ
日本各地で親しまれている鮭ですが、その呼び名には不思議な飛び地的傾向が読み取れます。
回帰流域の一般庶民の口からその時代の支配層への献上物や珍重品へと、
捉えられた後でも出世溯上してゆく鮭の行動力を想像力を駆使して迫ってみたいと思いマス。
・むかしむかしから鮭は交易品だった
・そのむかし鮭はお供え物や献上品だった
・鮭は北日本のみならず古東京湾にも溯っていた
・すこし昔鮭は褒美や贈答品として江戸よりくだされていた
古岩船潟のおもかげ
平成の現在では日本有数の穀倉地帯を誇っているここ北越後の古代から中世にかけての地形は幾多の河川からなる河口に大きな古岩船潟(琵琶潟)が形成される汽水流域でした。
そこから獲れる鮭に代表される魚類や水海産物は地域を潤してくれていました。
信濃川以北の古越後平野には大小幾つもの潟が存在し、それらは一連の運河水系を成していたことが研究事例から解明されています。
畿内から蝦夷松前地区にかけての北前船が発達した背景とされ、内海として航海の安全を支えていたことが想像されています。
古岩船潟のおもかげ (pdf)